過去の挨拶 会長からの挨拶
会長 大槻 幹雄
月並に云えば、愈々ミレニアム交替の時期というのか、世紀が変わるというのより、また一段と意味あり気な新年である。
二十世紀は前進の世紀だったと云いたいところだが、いまになると暴走の世紀だったと云わなければならない。二十世紀に入るや飛行機が飛ぶようになり、マルコーニが無線通信に成功した。この二つで地球全体の実質距離が著しく狭くなり、正に二十世紀は地球規模ですべてが展開されることとなった。
この中で特に我国の電気通信の百年は特筆に価するのではないだろうか。マルコーニ無線通信の成功は一八九五年で、殆んど同時にサンクト・ペテルブルグ大学教授アレクサンサンダー・ステパノービッチ・ポポフも成功している。二十世紀に入るや、ドーバー海峡を越えて英仏両国の間で通信がおこなわれるようになったのはよく知られている。我国では電気試験所で一八九七年に江戸湾で成功、日露対馬沖海戦で大成功を収めたのが一九〇五年であって、早くも国際舞台に登ることになる。
この無線通信装置の開発に当たったのが松代松之助氏であったが旧制二高教授としてこれをたすけたのが、木村馳喜吉博士で海軍教授という職についておられた。
一九〇六年には東京小笠原間の海底ケーブルが出来て米本土との直接通信が可能となり、一方鳥潟・横山・北村三氏の協力による研究で、世界最初の送受信同時に可能な無線電話機が出来上がった。この時に協力されたのが東大におられ、東北大学電気系創設に当たって兼務で力された鯨井恒太郎先生のところに出入りしておられた八木秀次先生が、要員として仙台高等工業学校教官として仙台に赴任されたことから東北大学電気系の歴史が始まると考えてよいようである。
時あたかもフレミングの真空二極菅からドフォレストの真空三極菅の発明があり、通信の世界は急速に変わって来る。この将来を見通して、我等が先輩は逸早く研究に着手、バルブ大学な仇名を奉られた話しや、論文を出さないでくれると云われた話は有名である。
時あたかも、本多光太郎教授による理学と工学を一体としたロード・ケルビン式教育が花咲きはじめた頃で、八木先生はいたく感銘されて、東北大学工学部の特徴をこのあたりに置く考えを啓発されたことは有名で、そのあと、本電気系は、八木アンテナから岡部型マグネトロンと次々と世界的成果を挙げることとなる。松尾貞郭助手が、電波高度計の着想を出したが、これは後のレーダへの展開につながってゆく。
齋藤報恩会の大きな援助があったとは云え大学創設以来百年近い今日、振り返って見ると、この初期を中心にした電気系数十年の歴史は、正に世界の通信史上、輝ける時代だったことが分かる。一九五八年渡米してテキサス・インストルーメント社で、東北大学は水中通信で有名だと云われて驚いたことがある。新しいミレニアムを迎え、栄光を再び輝かそうではないか。